遊行寺境内
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遊行および関連施設の紹介をします
建物、由縁と上人ゆかりの場所
小栗判官伝説
小栗判官と照手姫の伝説は浄瑠璃や歌舞伎など、江戸期には大変有名でした。小栗伝説の跡も、江戸の観光名所といえます。伝説は、大体以下の内容。
「小栗判官は、妻の照手姫の親、横山氏に毒殺される。その後、地獄より原型を留めない姿で地上に戻り、遊行上人のはからいで車にのせられた小栗は、道中、照手姫と共に相手とは知らずに再会。
照手に車をひかれ、熊野湯の峰についた小栗は湯の力で復活。再び夫婦になった後、小栗が亡くなると、照手は小栗を弔うために仏門に入り長生院(小栗堂)をたてた。」
■小栗判官関連遺跡
長生院の裏手に、照手姫の墓、小栗判官の墓、小栗判官眼洗いの池などがある。
板割浅太郎について
・戦後生まれにはなじみが薄いですが、板割浅太郎といえば、講談や浪曲で有名だった任侠の国定忠治の子分。
国定忠治に、裏切りを疑われた浅太郎は、身の潔白をはらすため叔父勘助を討つように命ぜられる。
浅太郎は、勘助とその幼い子勘太郎を討ちます。講談などでは、勘太郎をうたず、背負って赤城の山を越えた・・というストーリーもみられ、戦前の歌手東海林太郎の代表曲で、なくなよしよしねんねしな、で有名な「赤城の子守唄」は、浅太郎が勘太郎をあやす場面を詞としています。
・戦後生まれにはなじみが薄いですが、板割浅太郎といえば、講談や浪曲で有名だった任侠の国定忠治の子分。
国定忠治に、裏切りを疑われた浅太郎は、身の潔白をはらすため叔父勘助を討つように命ぜられる。
浅太郎は、勘助とその幼い子勘太郎を討ちます。講談などでは、勘太郎をうたず、背負って赤城の山を越えた・・というストーリーもみられ、戦前の歌手東海林太郎の代表曲で、なくなよしよしねんねしな、で有名な「赤城の子守唄」は、浅太郎が勘太郎をあやす場面を詞としています。
遊行寺の黒門をくぐってすぐ左に、遊行寺の塔頭真徳寺の墓地があり、そこに浅太郎の墓があります。言い伝えでは、赤城で勘助、勘太郎親子を殺めた板割浅太郎は、佐久の金台寺から、遊行上人の手引きにより、この地にうつり、親子の菩提を弔ったとあります。
山本周五郎の小説「遊行の浅」には、出自を隠す浅太郎が、寺の盗難を防ぐ様子が描かれています。
庭と池
・遊行寺の庭園には放生池があり、また、春は桜、初夏は菖蒲などが寺に彩りを添えます。
・遊行寺の庭園には放生池があり、また、春は桜、初夏は菖蒲などが寺に彩りを添えます。
歴史にまつわる見所
・遊行寺は、鎌倉時代~明治時代に至るまでの色々な歴史にまつまる見所があります。何となくお寺をまわっていると気がつかないスポットが沢山。知るとますます興味がわきますので、是非探してみてください。
・遊行寺は、鎌倉時代~明治時代に至るまでの色々な歴史にまつまる見所があります。何となくお寺をまわっていると気がつかないスポットが沢山。知るとますます興味がわきますので、是非探してみてください。
萬治三年(1660年)に建立されたという。
酒井長門守忠重は、江戸初期の旗本。
藤沢周平の「長門守の陰謀」では、策を巡らすも失敗し、無念のままに亡くなる様子が描かれていますが、どのような気持ちで、
建立に至ったのか、興味をかきたてられます。
明治天皇御膳水井、ご行在所碑(明治時代)
明治天皇は、3たび遊行寺に宿泊されています。その際、この井戸から御膳水がくみ上げられたそうです。
菖蒲園に面した廊下にはご行在所碑があります。岩倉具視、西郷隆盛、山岡鉄舟などが供奉員として同行したことがわかります。